ごはん
みそ汁
 
以前、まだ正社員だったとき、仕事に嫌気が差してきたこともあって、正社員てなんだろう、みたいなことを漠然と考えていた。仕事仲間にも何度か聞いたことがある。正社員とアルバイトの違いはなんなんだろう、と。その答え。正社員は給料が多いぶん責任が重くて、アルバイトは給料が少ない代わりに責任も軽い、ということ。なんだか、あらかじめ知っていたことを改めて聞かされた感じがした。私がわからないのは、その「責任」の意味なのだ。
責任の辞書的な意味は、「しなきゃいけないこと」だ。でも正社員よりもアルバイトの方がその程度が軽いというのは、どういうことだろう。アルバイトにだってしなきゃいけないことはある。しなきゃいけないことをしなくて怒られるのは、正社員だろうとアルバイトだろうと同じだ。責任が重いとか軽いとか言われることもあって、それを実感することもあるけど、あの気持ちは何に由来しているのだろう。バイトしているときの「バイト感」は一体何なんだろう。
さらに、しなきゃいけないことをしなかった場合でも、「責任をとって謝る」と言われることもある。たとえば、正社員は期限どおりに納品する責任がある。でもひとたび納品が遅れたときは、遅れたことについて「謝る責任」へと転化する(謝るのが上司なら「転嫁」でもいい)。その転化が成り立つということは、もともとあった「納期を守る責任」は、大して重くはなかったとも言えるような気がしてくる。そしてこの転化の構造はバイトでも同じだ。
ということはやっぱり程度の問題なのだろうか。正社員は納期を守る責任を負っていて、それを遂行しなければ客に(ゆくゆくは経営にも)影響をおよぼすから、その責任は重い。バイトは皿を大事に扱う責任を負っているけど、もし割ったとしてもそれほど影響は大きくない。私は今バイトの身分だが、官公庁へ提出する報告書を作成する仕事をしている。それだけ見ればけっこう責任が重いと思う。でも私が作った資料のチェック体制はちゃんとある。そのチェック体制を作るのも、実際にチェックするのも、社員の人だ。バイトの私がどこか間違っても、社員の人が見つけてくれるから私の責任は実は軽いといえる。そして社員が私の間違いを見過ごすと、間違った資料が提出されてしまう、という意味で社員の責任は重い。そして私が資料に入れる数値を間違っても、謝らなければならないのは社員の人に対してだから、意外と気楽なもんである。一方、社員の人が私の間違いを見過ごして間違った資料を提出すると、お役人の方々に謝らなきゃいけないことになるから気楽な気持ちではいられない。
なんか責任の重さ軽さというのはそういうことなのかな。バイト感は安心感とか気楽に由来していたのか。ふーん。と、なんとなく納得できたりもするがあんまりよくわからん。
 
焼そば
 

「責任」ってなに? (講談社現代新書)

「責任」ってなに? (講談社現代新書)

まあそういう感じで、責任について消化不良の感じが残っていた。そこで目に着いたのがこの本。著者の大庭健というのは専修大学の哲学の教授である。私にとっては久しぶりの哲学本だ。
しかしあまりいい本とは思えなかった。
 
まず人間は、心をもたないモノなんかとは違って、意志に基づいて行為することができる。雹(ひょう)が降ってきて、それが頭にあたって怪我をしても、雹にその怪我の責任を追及することはできない。でも、どっかのおっさんが氷のつぶてを投げてきて怪我をしたら、その怪我の責任をおっさんに追及することができる。
なぜそうなるのか。雹には降ってくるための「原因」はあるが、意志がないからなぜふってくるのかという「理由」を問うことができない。だから雹に責任を追及することもできない。片や氷のつぶてをなげてきたおっさんには意志があるのだから、なぜそうしたのか、という「理由」を問うことができる。だから当該のおっさんに責任を追及することもできるのだ。
このことから、大庭は「責任がある/負う」ということの根幹は「そう問われ・呼びかけられたら、答えうる」ことにあるとしている。すなわち責任の有無は意志の有無と対応するというわけ。
さて、ここで問題になるのは、責任が問われるのは個人に限った話ではないということ(この本の説得力のなさはここからはじまる話が「べき論」でしかないように思えるからだ)。すなわち、国家、企業など集団単位で責任を問われることがある。結論から言えば、大庭はこれらの集団にも責任はあるとしている。個人と同じように、集団もその同一性を保つからだという。だから会社は法人として扱われているのだという。はあ、なんか哲学の話ではなくなってきているような・・・。
そして、人間の体が時間とともに新陳代謝で総入れ替えされても人格が維持されるのと同じで、集団もその構成員が代わっても同じ集団であり続けるという。たとえば、ある工場が50年前まで河川に水銀をドバドバ排出していたとしよう。その当時に奇形の赤ん坊が生まれたりしていたけれど、原因がどこにあるのかわからなかった。そして50年後の現在になってその工場が排出していた水銀が原因だったとわかった。おまえらの工場は責任をとれ、賠償金を払え、という運動が起こる。もう50歳を超えた奇形のおじさんおばさんたちが工場前にバリケードを形成するわけだ。想像するだけで痛々しい情景ではある・・・。でも、50年前にその工場で働いていた人はもう退職しちゃってて、工場とは何の関係もない人生を送っているし、多くの人はもう死んじゃったよ。責任とれと言われても、今の俺たちは水銀を河川に排出したことなんてないっすよ、と工場の人たちは言いたくなるだろう。被害者と工場の人との言い分はどちらもごもっともだ。でも、それだと責任を負うべき人がだれもいなくなって、被害者を救う術がなくなる(あったとしてもお金でしかないが・・)。それはまずいので、やはり今の工場にも責任があるとすべきなのだ、ということになる。大庭はそういうことを言っている。
まあ、社会を成り立たせていくためにそうすべきというのはわかるんだけど。わかるんだけど・・・それって、哲学じゃないじゃん!と、私は思うのだ。この本が哲学の本であるのなら、成員がすべて代わってもその同一性が維持される/されないのはなぜなのかを、考えるべきだ。それこそが哲学者大庭の仕事じゃないのか。人間の新陳代謝と同じで、なんて話はぜんぜんだめだ。なぜなら、過去の責任を追及するには過去と現在の意志を引き起こした人格が持続していることが必要だけど、人員が総入れ替えされた工場では、それが持続していないことになるからだ。工場の意思決定は人間によってなされるのであるからして。だから工場の例は、新陳代謝しても人格が維持される人間とはぜんぜん違う話である。論拠としては不適切かつ不十分だ。
(この本では工場ではなく会社について論じられているんだけど、なんとなく話がわかりやすいので私は工場を例にしました)
まあとにかく、別の事例で考えて見よう。上は過去の過失についての話だが、現在の過失についてはどうか。すなわち、工場が現在水銀をどっさり流していることが明らかになった。その責任はもちろん現在の工場にあることになる。さて、では工場で働いている人たちにも責任を負わされるのだろうか。もちろん、負わされる。しかし工場で働いている全員に負わされるのか。そうだ、と大庭は言う。水銀が流れるような機構を作るのに関与した一部の人だけに負わせればいいんじゃないか。工場の下々で働く多くの人たちは、そんな機構であることは知る由もなかったし、上司の管理下で言われるがままに作業していただけなのに・・・。そういった下々の「責任逃れ」の言い草は、本書の後半で徹底的に糾弾される。つまり「おれはそうするしかなかった」という言い方は、意志を持たずに行為していたということであって、非人間的であると。なんかそういうことらしい。
この工場で働く人のように、「そう問われ・呼びかけられたら、答えうる」ものでなくなった人たちは現代にはびこっていて、特に若者にそういう人が多いらしいです。へえ、そう?なんか若い人たちは「そうするしかなかった」といって責任逃れをして「ほんとうの自分」なるものの意志によってやったのではない、と言うらしい。役割と自己の乖離とか、そんなことが言われてます。香山リカが同じような胡散臭いことを言っていますね。このあたりが本書の山場であるようなのだけど、私は「ほんとうの自分」というものの実感がないのでちょっとついていけなかった。正直なところ、興味がないので読んでいない。
ともあれ、こういった責任逃れの構造は会社や官僚の不祥事をはじめ、戦犯などにも通じるぞと。そういうことが言われている本でした。今日の日記も長いなあ。
あー、この本の大筋はそんなとこ(ぜんぜん違う気もするが)だけど、責任問題の基礎として、自由意志の問題が取り上げられてもいる。人間は本当に自由な意志をもって行為できるのか、というよく知られた古典的な問題ですね。大庭は結論としては、自由意志はあるとしています。

さらに、そうだ、これを忘れてはいけない。役割と自己の乖離についてトマス・ネーゲルが引用されていた。ここが私的には気に入らなかった。まず大庭はネーゲルのどの著作からの引用なのかを明示していない。戦犯に関する出典はいちいち明示してあるのに。学者としてあるまじきことだ。学生の指導とかでもその辺厳しくするもんでしょう。妙なことだ。
さてその内容を私も負けじと引用させてもらう。引用中の「彼」とはネーゲルのことです。

彼は言う、「あらゆる人物−−そのうちの一人がT・ネーゲルなのだが−−を含んだ、世界の完全な描写が与えられたとしても、それらの人物のうちのどれが私なのか、という絶対的に本質的なことが、抜け落ちているように見える」。そのかぎりでは、と彼は続ける、「私と、T・ネーゲルとのどんな関係も、偶然だと思えてもおかしくない」。そうだとすると「私は、たまたま・・・T・ネーゲルであるにすぎず、ほんとうの私であるもの、つまりこの意識している主体は、別の人の視点から、世界を見ることができてもおかしくなかろう」。

これこそが、「ほんとうの自分」と現実の自分との乖離を語っているのだ、と大庭は言う。大庭の解釈では、ネーゲルは別の人の視点でも世界を見ることができる、ととらえているわけだ。でもそうじゃないでしょう。ネーゲルできるとは言ってないじゃないか。おかしくはなかろうと言っているだけだ。微妙な違いだけれど、決定的な違いだ。
けしからんことに出典が明かされていないので正確な話はそもそも無理なのだけど。この文面と私が知っているネーゲルの知識で判断すると、ネーゲルが言っているのはおそらくこういう意味だ。たとえば世界をありとあらゆるものまで完璧に描写した「世界大百科」があったとする。そこには世界地図のような海やら山やらのほかに、人や動物や虫や魚や草なんかも描かれているし、過去にどんなことがあったか、昨日のネーゲルは何を食べたか、何年何月何時何分に誰がどこにいたか、なんてことまぜ全部描かれているものだとする。その地図にはもちろん、ネーゲルも描かれている。でも、世界大百科がどんな細かなことまですべて書きつくされているとしても、どれがネーゲルの世界におけるネーゲルなのかは絶対に描かれることはない。それは描き得ないからだ。「トマス・ネーゲル」という人物は世界大百科に掲載されてはいるけれど、どれがネーゲルにとっての私なのか、という「絶対的に本質的なこと」は抜け落ちてしまう。なぜなら、世界大百科は客観的な世界を描いているからだ。世界は、事実としてそういうあり方をしている。でもそれはネーゲルが見る世界とは本質的に違うものなのだ。これがネーゲルが前半部分で言っていることだ。
でも客観的な世界がそういうあり方をしているのなら、ネーゲルが「私」であることの理由がなくなる。どういう理由でトマス・ネーゲルという人物が私になりえたのかは客観的な説明ではなりたたない。ということは、それは偶然と言うしかなくなるわけだ。たまたま私はトマス・ネーゲルであるにすぎない、と。問題はここからだ。
ネーゲルは、別の人の視点から、世界を見ることができてもおかしくはなかろうといっている。だって私がネーゲルであることは客観的に説明しえないのだから、逆をとれば私は他の誰であっても、つまりエジソンであっても横山ホットブラザーズの右の人であっても、客観的にもは何もおかしなことは生じない。でも、だからといってネーゲルはそれができるとは言っていない(客観的どころか主観的にもおかしくないと私はおもうけど、それはおいておく)。大庭の誤解はここにあると思う。
この誤解をもって大庭は、役割と自己の乖離とかいうよくわからん議論を成り立たせるためにネーゲルを槍玉に挙げて批判するわけだが、彼の指摘は見当はずれだ。もっとも、ネーゲルのどの著作のことを言っているのかわからないので確信をもって言うことはできないが、私が知る限りトマス・ネーゲルという人は大庭みたいなわけのわからん戯言はぜったいに書かない人だよ。あまり関係のない話をするようだけど、議論の筋もすばらしいし、文体も丁寧で、何より根っからの哲学者だという感じがする。
ネーゲルは私が本当に好きな哲学者のひとりだ。かつて私が哲学専攻として大学に入学したとき、授業のあまりのつまらなさに絶望して、本気で大学を辞めようと思った時期があった。浮ついた形而上の話が突然プラグマティズムへ飛躍して、世間に与しようとする様子が本当に惨めで、こんな学問を選んだ自分が間違っていたのか、と嫌気が差した。そこへたまたま立ち読みした本で「哲学は、世界の推移への貢献度によってではなく、その理解への貢献度によってこそ、最もよく評価されるものなのである。」とネーゲルが言っているのを見て、自分はやっぱり哲学をしたい、一生哲学と付き合い続ける、と決意したのだ。間違いなく、この一文が今でも私の支えになっている。たぶんずっとそうであり続けるだろう。
同じときに大庭あたりの人間が書いた哲学書を読んでいたら、今は「役割と自己の乖離がどうのこうの」とわけのわからんことに思い悩む人間になっていたかもしれん。
長くなりましたが、哲学を志す人にはあまりオススメできない本です。
 
ごはん
みそ汁
サバのみりん漬け
 
丸の内のミレナリオが今年で中止になるらしい。
たまたまあの辺を走っていたらすごい電飾が目に入った。はじめて見た。まだやっていたのか。あれはクリスマスのためにやっているのだと思っていたら、そうでもないんですね。そうでもあるのかな。元旦までやっているらしい。
私は夜景にしてもライトアップにしても電飾のよさがあんまりわからないのでどうでもいいんだけど、東京FMの七尾藍佳さんによると、中止になる理由は警備上の問題と美観上の問題があるから、とのことらしいっすよ。
警備上の問題というのはまあわかる。あの辺はオフィス街で、ちょうど電飾がピカつくのが退社時間と重なるから勤め人にとっては邪魔だろう。ミレナリオを見る人は東京駅からわんさか来るわけだけど、勤め人はそれに逆行する形になる。歩道を電飾好きの人たちに占拠されてスーツ姿のおっさんがしっちゃかめっちゃかになる様子が目に浮かぶようだ。
しかし気になるのは美観上の問題ってやつだ。ミレナリオは電飾をして夜をきれいに彩るためにやっているはずなのに、美観上の問題があるというのはえらく矛盾している。ミレナリオの公式ホームページにこんな知らせがあった。ミレナリオの会場近くにある内本屋という文化財を改修工事することになりました、と。そして東京駅丸の内口周辺には仮囲いや資材置き場が設置され、美観が損なわれてしまってうんぬんとあるが、それは丸の内口周辺を整備するための仮囲いでしょう。内本屋と関係ないじゃん。しかも美観を損ねているのはミレナリオではないってことだから、ミレナリオが美観を損ねていることの理由になっていない。だからこれだけを見てもミレナリオが中止することになった理由がわからん。
ひょっとして資材というのは丸の内口周辺の整備のための資材ではなくてミレナリオの資材ってことなのか?それはたぶん違うだろう。公式ホームページには2006年春から仮囲いや資材置き場が設置されると書いてあるから、冬に開催されるミレナリオとは何の関係もなさそうだ。
ふつう電飾っていうのは、五重塔とか東京タワーとか街路樹とか、すでにあるものをライトアップしたり電球をつけて飾るようになっているけど、ミレナリオも神戸のルミナリエも、電飾のためだけに新しく何かを建てなきゃいけない。結局はそこに無理があったってことなのかな。昼間によく丸の内を通るけど、ただの鉄の枠だものね、あれって。