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言語学が好きになる本

言語学が好きになる本

一般の人が言語学に対して持っているであろう、素朴な疑問について答えていくという構成の本。
私はこれほどまでに読みやすい言語学の本を見たことがない。長年の言語学研究の成果を「つまりこういうこと」というふうに誰にでも理解できる形に整えるとは、なかなかにブラボーな心意気である。その点ではとてもよい本だと思った。
でも残念なのは、素朴な疑問として挙げられた24のQが、どれもその答えをなんとなく想像できるものばかりなのである。
たとえば「Q5.完全なる自動翻訳機は実現する?」という節についての答えは、「近い将来に実現するとはとても思えません」というもの。なぜそうなのか・・・なんとなくわかるでしょ?
「Q12.『は』と『が』はどこが違うの?」うーん、たぶん完全にはわかっていないんじゃないかなあ、と思いながら読んでみたら、やっぱりそうだとのこと。
「Q16.日本人はどうして英語が下手なの?」答え。日本語と英語は文法が違いすぎるし、日本に住んでいると英語を使う必要性があまりないから。当たり前だなあ。
「Q17.二十ヶ国語ペラペラの人って本当にいるの?」いるわけがないよねえ。
「Q20.世界にはいくつの言語があるの?」わからないって聞いたことがあるなあ。実際わからないそうです。
「Q23.フランス語が美しいって本当?」ウソかホントかという問題ではないでしょう。
そういう感じで、もうちょっと疑問のレベルを上げても良かったんじゃなかろうか。レベルの高い疑問がどんなものなのかわからないが。いずれにしろ、このレベルの疑問でさえすべて明確に答えられているわけではないから、もうちょっと込み入った疑問になったらなおさら答えられないのかもしれない。
この本を読む人は、目次の疑問について言語学的に解答が与えられるものと思って手に取るのだろうけど(私もそうだった)、驚くべき回答はほぼないといっていいくらい。「言語学ってこの程度か」と思うことのほうが多くて、入門書として成功しているかどうかちょっと疑問だ。本自体の敷居はかなり低いから、言語学という「門に入る」のは簡単と思わせるが、その門に「いざなう」ところまでは行っていない感じ。
 
とり五目ごはん
みそ汁
 
「本物の金持ちって普段はケチだけど、ここぞというときには出し惜しみしないんだよね」と言うが、本物がそうであれば偽者の金持ちというのはつまり、普段は金遣いが荒いのにここぞというときに出し惜しみをする人のことを言うのだろう。
しかしこれは本物の金持ちになるためには普段はケチにならないといけない、と言っていることにはならない。「A→B」が真である場合でも、「B→A」が真とはいえない。つまり本物の金持ちがそうであるところの性質(普段はケチ)を真似してみても、必ずしも本物の金持ちにはなれないということだ。または本物の金持ちと言われる人は、普段はケチだからそうなれたわけではないと。たまたま普段ケチなだけということだ。
それなら、本物の金持ちと言われる人は、どうしてそう言われるようになったのだろう。仮に「A→B」が本当だとしても、どのようにしてAであるかAではないかを見極めるのだろう。つまり本物と偽者をどのように区別するのか。どちらも金持ちであることに違いはない。違いがあるのは「普段はケチ・・・」か「普段から金遣いが荒い・・・」ことだけだ。
だからたぶん、本物の金持ちは「普段はケチだけどここぞというときに出し惜しみをしない」がゆえに本物の金持ちと言われるようになっただけだろう。「A→B」と言っているのではなく「B→A」と言っていたわけだ。なるほど、まあそういいたい気持ちはよくわかる。愛娘の結婚祝いだとか言って豪邸をポンと買っちゃうなんてすげえって思うものね。でも考えて見ると、同じ論拠でうまい棒でさえ値切るくせにムシキングカードはまとめ買いする小学生も本物の金持ちということになってしまう。
ここで本物と偽者の区別はその人の持つ資産によるのだ、という主張ができるかもしれない。つまり多くの資産を持っていて、かつ普段はケチな人が本物の金持ちだと。しかしこの主張は危うい。仮に10億円以上の資産を持つ人のことを本物の金持ちということにすると、9億円の資産しかない人は(じゅうぶん金持ちなのに)惜しくも本物の金持ちではなく、ただの金持ちだという変な議論になってしまう。たとえその人が普段はケチであってもだ。
どうも変だ。
結局は程度問題であり、感覚的な問題なのだろう。「ある程度」金持ちであれば、その人は金持ちである。明確で客観的な線引きをすることはできない。そもそも金持ちに本物もクソもあるもんか。だから「B→A」はおかしいし、もちろん「A→B」もおかしい。それを言いたかった。