丸くて大きいパン
 

数字オンチの諸君!

数字オンチの諸君!

この本の言う「数字オンチ」とは、算数や数学が苦手な人のことであったり数字を見ると臆してしまったりする人のことだろうと思っていたが、それだけではなかった。「数字オンチ」というのはつまり、テレビや新聞や生活の中で見聞きする数字を安易に受け入れてしまう人のことであって、算数や数学ができることはあまり関係ないようである。
この本を読めば直感的には受け入れがたい数字でも計算すれば納得できること(※)はあるし、直感的にすんなり受け入れられる数字でも間違っていることがあるのがよくわかる。それらの多くは四則演算、分数、百分率ができれば容易に計算できるものばかりだ。そんな計算はふつうの教育を受けた人なら誰だってできるのだ。だから算数や数学の得手不得手にかかわらず、数字に対して無批判的な人は、数字にだまされやすいという意味で数字オンチである。要はこの本の教訓は、数字にだまされないようにちゃんと考えなさいってことだ(もちろん算数や数学をちゃんと理解しろとも言っているが)。
しかし多くの人にとってすべての数字に対して批判的に考えることなんてできないだろう、と私は思う。現代人は忙しいらしいからそんな暇はないだろうし、考えるに値しない数字(たとえばめがね率)や考えるための材料がそろっていないまま知らされる数字(たとえば少年犯罪の増加)もたくさんあるからだ。
ただ、考える暇がないorできない、というのであれば、知らされる数字を安易に受け入れることもやめたほうがいい。でも、だからといって数字は全部信用しないっていうのもまずい。数字に対して自分の判断を保留する態度を身につけること(「本当かなあ」と思うこと)がいちばんよいんじゃないかと思う。
この本を読めば基本的な計算の仕方や、順列や組み合わせなんかも復習できるし、数字の疑い方ノウハウなんかも身について勉強になります。世間に流布している妙な数字を前にして「数字オンチ的たじろぎ」はかなり減るでしょう。悪くても「たじろぎから保留へ」態度が改まるはず。いい本だと思います。
 
※本書の例を出すと、たとえば98%正確な癌の検診があるとする。10,000人のうち50人が癌である集団に対して、この検診をおこなうと、陽性反応が出たひとのうち実際に癌である人は約20%という結果が出る。つまり、20%しか当たらない。98%正確なのに20%しか当たらないとゆーパラドキシカルな結論がでるのはなぜだ。
ビコーズ、この検診では実際に癌である50人のうち49人(50−50×0.02)に陽性反応がでることになるが、癌ではない9950人のうち199人(9950×0.02)にも陽性反応が出ることになるからだ。陽性反応がでた合計258人(49+199)のうち、実際に癌である人は約20%(49÷258)であることになる。とゆーわけで98%正確な癌の検診は20%しか当たらないのだ。
ここで私なりに補足。私が現実に98%正確な癌の検診を受け、陽性反応が出たとする。本書では、上記の例の場合は当たる確率が20%だから「用心しつつも楽観的であるべきだ」としている。決して間違った結論ではないが、それは10,000人のうち50人が癌であるという前提があってこそ成り立つ話だ。そもそも10,000人のうちに何人が癌なのかを明らかにするために検診があるのだから、その前提があることからして現実離れしている。その検診が98%正確である限り、陽性といわれた私が癌である確率は、陰性がでた人が癌である確率よりもはるかに高い。やはり私は不安にならざるを得ないのである。ガーンって。
 
死体は語る (文春文庫)

死体は語る (文春文庫)

検死の体験集みたいな本。死というキーワードに相応しく44という不吉で大量の章立てになっているのは意図的なものか。でも200ページしかないので、ちょびちょびと細切れに読んでいくことができる。これは自殺と見せかけた他殺だ!などという話は実にてんこ盛りで、推理小説的でありながら実は実話であるという、案外相反するふたつの要素を両立したおいしい本と言える。そのうえくだらないシャレまで暗示するとは。
著者はとても誠実なひとで、死者の人権を守るために検死をする、という態度を一貫している。あまりに誠実なので私なんかはちょっと嫌悪感すら感じるのだけど、妙に納得してしまうところも多数。「法律そのものではなく、法の精神が理解され、生かされなければならない」なんてところは、正論すぎて今まで思いつきもしなかった。
本書の初版が発行されたのは1989年で、私の手元にあるのが1998年だが、なんと「八十一刷」とある。売れすぎだろ。
 
ごはん
みそ汁
 
電車に乗るたびに英会話の広告が目に付くが、あれはなんとも違和感がある。何がおかしいというと説明しにくいのだけど、んー、何の条件付けもなく「ウチの英会話教育はすごいよ」みたいな宣伝文句ではじまるのが不自然だ。その英会話教育がすごいことよりも、まずどうして英会話が必要なのかを説明してくれないと、どうも不自然な広告に見えてしまう。
私は英会話に興味がないからかもしれない。たとえばグルメ雑誌があったとして、この店の料理はほっぺがふっとぶほどウマイ!と宣伝しているなら、私は人が(無条件に)おいしいものを食べたいと思っていることを知っているので、その宣伝に違和感を感じないのだ。化粧品の広告でもおなじで、女性がきれいになりたい気持ちを理解できるからまったく不自然さを感じない。
これが英会話の広告になると、なんだか「?」と思ってしまう。誰もがおいしいものを食べたいと思っていたり、美しくなりたいと思っているのと同じレベルで、英会話をしたいのは万人の前提であるかのように扱われている。確かに英会話ができたらかっこいいかもな、とは思う。でも、その英語を使う相手ってのは誰だろうと考えて見ると、たぶん英語圏の人だ。英語圏の人に英語をしゃべるとかっこいいかというと・・・。おおかた同伴の日本人にかっこいい振りができる程度だ。
かっこよさを求めているのではなくて、仕事で必要になったから、とか留学生と交流するから、とかで必要なのだという人もいるかもしれないが、それは半分くらい間違っている気がする。英語を使う必要があるのなら、使っているうちに覚えられるじゃないか。よく聞くのは「半年くらい英語圏で暮らしたらペラペラになるよ」とか「使ってりゃそのうちしゃべれるようになってるよ」などという俗説である。この俗説の信憑性は私には判断できないが、本当だとすれば、英会話が必要な人はスクールに通うまでもなく英会話できるようになるだろう。必要性ってのが絶大な学習効果をもたらすのは周知の通りだ。必要といいながら身についていない人は、たぶん本当に必要ではないのだとおもう。そりゃあ、必要があって普段から使ってもいて、さらに上達を早めたいからスクールに通うのは理解できる。それについてはまったく疑問はない。今は使ってないけど転職で必要です、という人については、英会話が必要ない職場を探したほうが楽だよ、と勧めてあげる。
それか、頭がよくなりたいから英会話を習うというのなら意外とアリだと思う。日本語とは違う思考方法で考えるのはいい刺激になりそうだ。頭よくなりたいから明日から英会話スクールに行きます、っていう人がいたら私は応援しちゃうよ。応援だけする。
なんかそういう感じで、英会話の広告はもっと条件付きで宣伝すればいいのでは、と思う。条件付きというか、メリットだな。英会話を習うことのメリットを広告しなきゃ、私のように興味がない人にはぜんぜん効果がないどころか意味がわからない。グローバル社会がなんたらとかじゃ誰も振り向かないよ。もっと斬新なメリットを訴えないとだめだ。
まあ今あるような広告でなりたっているくらいだから、今のところかなりの殿様商売なんだろうなあ。