ひき肉のカレー
 

家族場面 (新潮文庫)

家族場面 (新潮文庫)

SF短編集。
おもしろいというか感心した。表題作の「家族場面」は、気がつくと石川五右衛門だったという主人公が石川五右衛門ぽさを義務的に演じていると、いつの間にか物書きの老大家になりあがった自分をこれまた義務的に演じる場面に転じているという話。
時空間移動にはさしたる疑問を抱かず、シチュエーションと自分の立場を判断して、しかるべき言動はこうだと演じる。その言動に対して他の登場人物もまた演じ返す。そいうふうにして「話が展開する」。台本のない即興演技である。この話のおもしろいところは、演技を自分だけがやっているのではなくて、他の登場人物もみんな演じている(ように見えている)ところだ。
これはふたつの意味でリアリティのある話だと思う。ひとつは現実で他人に接する場合。周囲の人々の言動に接するとき、みんな演じているようにも見えるし、本気のようにも見える。実際、演じているときもあるだろうし、本気のときもあるのだろう。でも、演技か本気かなんてほぼ確証は得られない。そう見える/見えないということですら、演技である可能性をぬぐいきれないからだ。でもこれは、「宇宙は神の腹の中にあるんじゃないか」と考えるときのような、ナンセンスな印象を受ける。どうせ考えてもわからないじゃん、という。
もうひとつは、どうすれば自分は演技を排除できるのだろうと考える場合。私にとってはこっちのほうが重い。たとえば「鰹節の私物化(かつぶしのしぶつか)」という回文を教えられたときに笑う自分は、本気で笑っているような気はするが、でも笑ってあげてるだけのような気がしないでもない。たしかに面白いけど、声を立てて笑うとなると、やはりそうしてあげている気分になる。一人で部屋にいて本を読んでいても、ひとりで本を読んじゃってる自分を意識せざるを得ない。米を研いでいても、こぼした豆乳を拭いていても、椅子に座っているだけでも、どうしてもわざとらしくなる。私だけだろうか。人は完全に何かに没頭しているときを除いて、常に自分から数メートルくらい離れたところで自分を客観視している、ということを言いたい。
「家族場面」ではあくまでも義務的に演じているかのような描写なのだけれど、演じずにいることは果たしてできたのだろうか。そして演じないということは、つまりどういうことなのだろうか。それはもう、解脱の境地か。しかし解脱っていうのもまた、わざとらしい。
 
ごはん
納豆
 
きんぴらごぼうに、みりんと間違って酢を入れてしまった。料理の腕が落ちた。
 
ごはん
金平ごぼう
焼鮭