heppoco2005-10-21

緑のたぬき 天そば
 
天ぷらそば
 
東京藝術大学の人たちがやっている「言の伝え」というイベントに行ってきた。言問通り沿線の空き地、旧邸、旧小学校などを会場にしてあーてぃすてぃっくな展示をするというもの。(ちなみに「言の伝え」のチラシではホームページのアドレスがwww.geidai.ac.gr.jp/なんたらと記載してあったがそんなドメインは存在しないぞ。)
東京芸術大学の人たちがやるイベントって、ちょっと難しくて、私にはそのよさがわからないものがおおい。今回もそうだった。私に芸術のたしなみはほとんどないことを断った上で言うと、んー、特に空き地のインスタレーションがわからんかった。ママチャリを高いところに展示して、カゴの代わりに変な木枠がくっつけてあったり、ショベルカーで大きなコンテナを吊り上げたりしてあるわけだが。
アートっていうのは、どこからどこまでがアートなのかを見る人がわかるようにしないといけない。どんな妙ちくりんな作品でもそうじゃなきゃいけないと思う。そして「ここからここまでがアートですよ」ということを、いかにほのめかすかがアーティストの腕の見せ所じゃないだろうか。インスタレーションのように境界線が不明確なものについてはなおさらだ。
境界線の理解があってはじめてそのアートについての評価(良い/悪い、すごい/すごくない)をくだせるようになる。掟破りにこそアートのおもしろさがあるとはおもうのだけど、それでも境界線を示すこと(「こういう掟破りをしました」など)は最低限としてどんなアートでもやらなきゃいけないことだと私は思う。
空き地のインスタレーションがわからなかったのは、どこからどこまでがアートなのかがわからなかったということだ。谷中の墓場はこのアートに含まれるのか、展示物の距離感は意図されたものなのか、などなど。
私的には旧小学校の展示がよかった。上の話のつづきで言うと、展示が教室で分けられていて、教室内にあるものすべて(黒板や椅子の配置なども含めて)がアーティストの意図によるものなんだな、と意識しながら見られたからである。作品の良い/悪いとはまた別の話だ。良いものも悪いものもあったと思う。ただ、展示場として旧小学校というのはアリだなと思っただけ。どの作品も私には難しすぎるのかもしれなかった。
東京藝術大学は難しいことをやっているのだな。
 
納豆
サンマ
 
長野オリンピック聖火リレーに出たことがあった。
なぜ出たかというと、私の陸上の成績がよかったからとかではなく、当時の陸上部の顧問に「お前、聖火リレー出る?」と聞かれたから、「おもしろそうなので出たい」と返事をしたところ、本当に出ることになっただけだ。なぜ顧問がそんな権限をもっていたのかは知らない。
おもしろそうなので出たが、おもしろくなかった。ひとつよかったことは、聖火リレー時に着用したピカピカのウィンドブレーカーをもらえたことだ。別によくないか。
次の冬季オリンピックはいつだろう。時期を見計らってオークションに出品すれば数千円で売れそうな気がする。
夏季のオリンピックを好きな人と冬季オリンピックを好きな人は、微妙にファン層が違う気がする。冬季のファンは「妄信」という感じがする。だからたとえ私が着用したウィンドブレーカーであっても、それが冬季オリンピックゆかりの品であれば喜んで買う人はいると思うのだ。