heppoco2005-10-18

チャルメラとんこつ味
 
朝からインスタントラーメンを食しているのはいかにも退廃的だ。
今日も雨か。図書館まで歩いていくが、こないだ韓国人にもらったビニール傘が折れてしまったので手ぶらで行かざるを得ない。行かざるを得ないと言っておきながら、傘がなくなるのはちょっとうれしかったりするので濡れて歩く。なんで韓国人に傘をもらったのかは秘密にしておく。
 
なんで腹筋が「割れる」のか不思議だ。
腹に力を入れて触って見ると左右併せて6つくらいに割れている。こんな不思議な形で割れている筋肉は他にはない。鏡で自分の背中を見て見ると、肩甲骨の辺りの筋肉が複雑に絡み合っているのがわかるが、どの筋肉も肩のどれかの骨につながっているのだろうと想像することができる。しかし腹筋はどの骨につながっているのかまったく理解できない。腹に骨は無いはずだが、このひとつひとつの割れはどこにどうつながってこんな形になっているのだろう。人体の筋肉図を見ると、6つの割れは腹直筋というやつで形成されていて、これは胸のあたりから股間までまっすぐに伸びた筋肉であることがわかる。なるほど縦の割れはこれで理解できた、胸にも股間にも骨があるからね。でも、横の割れがやっぱりわからない。腹の横には骨が無いのである。
6つの割れが硬くなるのは上体を起こすときだけだ。体を横にねじっても硬くならない。横方向に筋があるということは、体を横に向けるときに使う筋肉であるはずなのにおかしい。
 
図書館でボケーっとしていると、おっさんの怒鳴り声が聞こえてきた。司書のおねいさん相手に文句を言っている。聞き耳を立てて見ると、予約していたのにどうのこうので連絡も無くてどうのこうのと言ってあんまり要領を得ない。
平日のあさっぱらから図書館にいる手合いというのはろくでもない連中ばかりで、壮年のおっさん方が互いの体臭を競い合うかのように閲覧席を占拠しているし、彼らが一所懸命読んでいるのは「ラッキーマン」だかの漫画で、それでいて仕事ねえよなどとほざいていたりするのである。司書などの知的な職業に就く方々であれば、そういった程度の低いおっさん(私もだ)の一過性の憂さ晴らしを軽くあしらうすべを心得ているのであろう・・・と思ったら。はて、司書はだんまりしている。
私はボケーっとしていたのであるが、やがて適当に検索などをしてみつくろっているうちにおっさんは帰ったようである。3冊ほどカウンターに持っていったら、司書のおねいさんはやけに機嫌が悪い。ぶっすーとした表情で本のバーコードをあてて、3冊むやみにバン、バン、と重ねて「11月1日までです」と言う。おいおいバンバンはないでしょ、それじゃアメ横の叩き売りだよ、おっさんにどなられたくらいでそない不機嫌をあらわにせんでもええやん?とちょっと私もムカっときたのであるな。何か言ってやりたい気持ちはあったが気弱に「へえ」と返事をして受け取るのみ。そして3冊の一番上に表紙を向けて鎮座していたのはこの本だったという事。これじゃあ怒っても怒り甲斐がないわな。まさに何がどうしてって感じだ。でもラッキーマンよりは高尚だぞ。

何がどうして (角川文庫)

何がどうして (角川文庫)

 
ざるそば
 
ナンシー関が死んだときはがっかりしたなあ。比較対象が間違ってる気もするが、中島らもデリダが死んだときとはまた違った感懐があった。中島らもデリダもすごい人なんだろうけど、さがせばまた同じような人が頭角を現してくるに違いない(と、みんなも思ってるでしょう)が、ナンシー関みたいな人はなかなか出てこないんじゃないかなあと思う。
こういう人は頭角を現そうとしないからだ。自己顕示欲がとても薄い人のような気がする。消しゴム版画やテレビ批評なんて、やってることはぜんぜんサブカルじゃない(?)のにやっぱりサブカル的な位置づけであるところを見るとそんな気がしてくる。もっとも、私は本以外ではナンシー関のことをまったく知らないのだけれど。
で、上記の本はテレビ批評というかタレント批評であるが、やっぱりこの人の観察眼はすごい。「鋭い観察眼」というよりはじっくりと時間をかけて構築された「重厚な観察眼」が発揮されていて、指摘することがいちいち的を得ている。的を狙う球が大きいからはずさない、まあよく言えば安定感があるってことだ。
藤原紀香について、紀香の好きなアニメキャラベスト10には峰不二子ラムちゃんなど「案の定」が見事に並ぶ。自分の「藤原紀香」を出し惜しみしない人である。スローガンも掲げやすい。という指摘などは、私が藤原紀香を見ているときのやりきれない嫌悪感を払拭してくれるかのようだ。また立川宣子が確信犯的にセクシーを売りにしているのと対比して、山田まりやもさとう珠緒も「はーい、私でオナニーしてくださあい」とは言っていないことになっている。など、「ことになっている」ってところが琴線に触れた。
人の悪口を言ってクスクス笑うのではなくて、わが意を得たりの痛快な笑いがあるのがいい。私は2年くらい前まではテレビのある生活をしていたけど今は無いから、この本くらいにちょっと古めの話題ならじゅうぶんわかる。
そしてナンシー関の本を読んでいると、テレビがある生活もけっこういいかもなあという気がしてくる。おもしろいからとかただなんとなくといった理由で見るのではなく、いろんな人を観察したいからテレビを見るというやりかたもあっていいんじゃないか。並の生活では接することのできない「異常」な人が、テレビにはたくさん出てくるからだ。
 
カップヌードルカレー味
メロンパン
 
尺八のライブに行ったのである。生まれて初めてライブで聴く尺八は、フルートにとても近い音だった。やや尺八のほうがやわらかいかな、という印象はあるが、それは見た目によるところが大きいかもしれない。目をつぶって聞いたらフルートと間違えそうな、まっすぐな音だった。
ピアノと尺八のデュオで、バップから雅楽みたいな音楽までいろいろやってくれた。尺八独特のひゅぶぉぉぉという息の漏れる音まで聴けてほぼ満足。私的にはひゅぶぉぉぉという音を聴きに行ったようなもんなのである。
実は日本の音楽はかなりいかしてるんじゃないだろうか。尺八もそうだが、お琴や横笛とか、三味線なんかもよさそうである(津軽三味線はダメっぽいけど・・・)。以前浪曲のCDを聴いたことがあるが、すごかったもんな。矜持心とアカデミズムにしか立脚点がない退屈な音楽だと思っていたが、まんざらそんなことはない気がしている。