heppoco2005-10-11

富士そば 朝食セット
 
台東区の青少年意識調査というアンケート用紙が届いた。13歳から29歳までの台東区民を無作為に1500人抽出したとのこと。台東区への意見や自分の生活ぶりなどを選択形式で答えていった。
そこで知ったのは台東区の「区民だより」の存在である。あって当たり前のものだが、自宅に届かないので知らなかった。ぜひ自宅まで配送してほしいとの旨記入した。
渋谷に住んでいるときもそうだったが、「区民だより」はけっこうおもしろいのである。奈良市に住んでいるときはそうでもなかった。奈良市は広いからである。渋谷区や台東区は面積が小さいので、どこになにがあるかはだいたいわかっているから記事が身近なものに感じられる。あそこでずっと工事しているのは何だろうとか、あの施設が謎だとかいろいろあるが、それらのことは知らないよりは知っているほうが楽しいのである。
 
日経コンピュータ最新号の特集は「紙なし企業増殖中」である。その昔もペーパーレスという言葉が流行したが、二の舞にならないか。
紙がなくてもできる、ということは必ずしも紙が無いほうがいいということを意味するわけではないと思う。EC(Electoric Commerce)や帳票データのやり取りをするだけなら、紙は不要なばかりか無駄なコストの元になってしまうことはよくわかる。だが一例を挙げると、ふたつの資料を人間が精査をするような場合には、ぜったいに紙のほうがストレス無くおこなうことができる。確かに電子データでも精査はできる。でも紙のほうが赤ペンで書き込んだりできるから読み込みやすい。(それに、電子データに赤ペンで書き込むような操作ができるアプリケーションもあるが、その赤ペンの内容を他の人がチェックするときにはその人も同じアプリケーションを入れていないとダメだったりする。)
紙と電子データのどちらをとるか、このときに考えなければならないのは、コストと作業のしやすさだと思う。これはある意味で、コスト面に目が行ってしまい勝ちな経営者と、仕事のしやすさを重視する作業者の、どちらの意見を優先させるかという問題であるかもしれない。そこで会社の方針を決めるのは経営者なわけだから、紙をなくそうとする会社が増えるのは当然だ。別に間違ったことじゃない。
しかし「紙がなくてもできるから電子データでやろう」という発想の裏を取れば「紙でできるなら電子データでなくてもいい」とも言えるのである。紙をなくせ、電子データにしろ、と無理を言うばかりじゃいけない。月並みな言い方だけれど、仕事に応じて電子データと紙を使い分ければいいだけの話である。紙をなくすことでコストも削減できて作業効率もアップする仕事はたくさんあるだろう。でも紙でやるほうがいい仕事も確かにあるはずである。
 
マーボー丼
 
上野公園を散歩していると、何かの撮影現場に出くわした。10人ほどスタッフがいる中で、黒くてピッチリした衣装を着ている女性が3人立っていた。女性が撮影対象らしい。
大きなレフ版とかがあってけっこう本格的な撮影だ。どんなものかなと思ってしばらく見ていたが、10分くらい経ってもなかなか撮影がはじまらない。3人の女性はほぼ微動だにせず立ちっぱなしだったが、スタッフはカメラの位置を確認したりウロウロしたり指示したりして入念である。ディレクターらしき人物が「じゃあ本番いきまーす」と声をかけてちょっと緊張感が高まる。もう一声つけくわえたのは「まばたきのシーンね」。え、なにそれ。と思うのも束の間、「スタート!」
3人の女性はやはり微動だにしない。5秒ほど経過。
「はいオッケー!」・・・って、ほんとにまばたきだけなのか。離れて見ててもわかんねー。こんなシーンだけでそんなに時間とるとは、何の撮影かは知らないけど辛気臭い仕事だねい。
 
他の人が使っているのを聞くのに、自分は使わない言葉は誰にだってあると思う。私は「俺」とは言わず「僕」と言い、「私」と言う。他にもたくさんある。
今日気づいたが私は「じゃないですけど」を使わない。
 
「備えあれば憂いなしじゃないですけど」
 
備えあれば憂いなし、と言いたいはずのところで「じゃないですけど」を使う人がいる。断定を避ける表現のように思われるが、そこは断定しなきゃと思う。まあ意味は伝わるからいいのだけど、ちょっと気持ち悪い。
だけどもっと気持ち悪がられるのは、そうした言い回しをいちいち訂正する人である。使わないだけでいるのが無難。
 
久しぶりにエミュレータでゲームをしたが、いまいち乗り切れなかった。ゲームはフリーセルが一番楽しい。でも、なんだかブルーになる。
 
かけそば
 
哲学とは何だろう。
私の好きなウィトゲンシュタインの「哲学的文法」の一節にこういうものがある。
私が黄色の花をさがしにゆくとする。さがしているあいだ、ある像が念頭に浮かぶことがあるとしても、私が黄色の花あるいは他の色の花を見たときに、私はその像を必要とするか。−−また、「私が黄色の花を見たとたんに、いわば記憶の中の何かがぱちんとはまりこむのだ」と私が言い、それは、ちょうど時計の鳴鐘装置において作動棒が歯車の溝にはまりこむようなものだとしても、私はこのはまりこみを、黄色の花を見るより前に予見し予想することができるか。−−ある特定の場合には私は、当のさがしているものではなくて、何か他の(間接的な)基準を予想するように、事実上なっていることがあるとしても、これはやはり予想ということの説明にはならない。
人はなぜ命令されたととおり黄色い花をもってくることができるのか。この問いに対して「人間は概念思考ができるからだ」と答える人にとっては、この問いは哲学ではない。一方、そう答えられてもなお、問題が解決されたように思われない人にとっては、この問いは哲学である。「黄色という色を思考する」とはどういうことか、というふうな事を考え始めるだろう。
残念なことに「人にとっては」という但し書きがつく。この但し書きがつかない哲学は無いんじゃないかと、私は思う。
本当は短い日記を書きたい。