携帯電話を買い換えたいと思っている。今使っている機種はツーカーTT41というやつである。おしゃれでないデザインが気に入ってこの機種にしたのだが、使い勝手がよくない。私の携帯電話の主な利用法は、目覚まし時計としてであるが、肝心の目覚まし機能が使いにくい。
折りたためない機種なので、かばんやポケットなどに入れていると勝手にボタンが押されて、知らないうちに電話をかけてしまっていたりする。相手が人間なら誤作動だと気づいて電話を切ってくれるが、もし時報なんかにつながってしまったら類稀な時報マニアとみなされた上、とんでもない電話料金を請求されることになってしまいそうである。それがたまらないので最近キーロックをかけるようにしたのだ。しかしキーロックをかけたまま寝ると、目覚ましのアラームをとめることができない。キーロックを解除してから、アラームをとめる操作をしなければならないのだ。しかもキーロックを解除しようとすると、「キーロックを解除しますか?Yes/No”みたいな表示が出てきて、眠い指でおぼつかず、”No”にしちゃったりしてアラームがピリピリピリピリと鳴り続け、うがーうるせーもうおきてるっちゅうねんとまればかぁ。となり、目が覚めるどころか頭に過剰な血液を供給することとなる。
買い換えようと思っているが、携帯電話の機種変更って実はとっても高い。高いということしか覚えていないけど、1万円は下らなかったと思う。ほとんど目覚まし機能しか使わないのに1万円なんてひどい。それなら目覚まし時計を買う。
 
朝マックフィレオフィッシュセット
 
盆栽をやってみたい。落葉樹と常緑樹の2つくらいほしい。
八重桜なんておもしろそうだ。冬の間は幹と枝しかなくなるけどそれはそれで味があると思うし、なんといっても小さな鉢の上に年一度だけモリモリ咲く姿は圧巻だろう。枝ぶりもゴッツリしていてかっこいい。あとは、盆栽らしく黒松かなあ。ベランダは日も当たるし、たぶんできると思う。うーん、でも植物のことはほとんど名前も知らないのでちょっと勉強してからのほうがいいかもしれん。そもそも盆栽がどこで売っているかも知らないのである。
 
zipファイルにファイルを追加することができない。LHUT32ならできた気がするのだけど、気のせいか。けっこう不便だなあ。
UNIXのtarコマンドなら-rオプションでファイルを追加できる。ということは、tarのDLLでtgzに圧縮すればWindowsでもファイルを追加できたりするのか。やってみたが、できない。なんか間違ってるのかな。
LHUT32だとlzhファイルにしかファイルを追加できないのかも。実際、lzhならできた。普段はzipで圧縮をするのだけど、zipの場合はLHUT32でファイルを追加できないのか?Windowsエクスプローラならzipにファイルを追加することができるが、ひとつファイルを追加するだけでもものすごく処理時間がかかる。
探せば追加削除自由なツールがあるかもしれないが、私は圧縮解凍閲覧まですべてまめFileというソフトひとつでやっているので、他のソフトを入れてごちゃごちゃさせたくないのだ。ちなみにまめFileだとlzhだろうとzipだろうとファイルを追加できなかった。DLLは全部最新にしているんだが。
 
焼豚チャーハン
納豆
 
懐石料理店を始めようとしている夫婦がいる。店内の構成もメニューもだいたい決まっているが、店の名前がなかなか思いつかないそうだ。いろいろ考えた末、奥さんが提案したのは
 
「京風懐石 おどくみ(お毒見)」
 
それはナイスだ。ぜひ。
 
賞味期限が9月30日の納豆を食べた。明日からこの日記がとまったらそのせいだと思ってください。まあ10日オーバーくらい大丈夫でしょ。
 
マルちゃん昔ながらのソース焼きそば
 
「鬼のように」という形容詞を最近きかなくなった。東京の人は使わないのだろうか。「鬼のように寝た」といえばぐっすり寝たことを意味し、程度のはなはだしい様をあらわす。
かわりに聞くようになったのは「爆睡」である。寝ているのに爆発するなんて意味不明だが、これも「鬼のように寝た」と同じような意味である。どちらもぐっすり寝たことを意味するが、夜の睡眠にはあまり使われない。「爆睡」のほうは本来寝るべきではない場面(授業中や会議中)で、意図せず寝てしまった場合に使われることが多い。
そういうわけで今日は鬼のように昼寝をしたわけだが、起きたときの気分の悪さったらなかった。なんか知らんが吐きそうだった。酒を飲みすぎたときや食あたりの時に吐き気が起こるのは、体内の毒を除去しようとする反応だと理解できるが、寝ただけなのに吐きそうになるのはわけがわからない。じっとしていても気分が悪いだけなので散歩に出た。いつも同じ場所に嘔吐してある地点にさしかかってチラとみたら今日もあった。あれ絶対いつも同じ人がやっているんだと思う。あやうくもらいゲロするところである。もらいゲロも私に理解できない反応だ。
昼に食べた納豆のせいだろうか。
 
かっぱ橋道具街に行くと、かっぱ橋道具街まつりをやっていてすごい人ごみだった。活気のある商店街を見るとうれしくなるものである。明日は最終日でブラスバンドがあったりテリー伊藤がきたりするらしい。

大型店とまちづくり―規制進むアメリカ,模索する日本 (岩波新書 新赤版 (960))

大型店とまちづくり―規制進むアメリカ,模索する日本 (岩波新書 新赤版 (960))

そこでこの本。拾い読みしかしていないのだけど。
大型店ができて、近隣の商店街が窮地に追いやられるプロセスが問題として取り上げられることが多いが、なぜそれが問題なのだろう、と考えたことはないだろうか。住民が商店街にいくより大型店で買い物したほうがいいと判断したということなのだから、そこに何も問題はないように思われる。
しかしそれは問題なのだ、と著者は言う。本の中にいくつもかかれてあるけどふたつだけ挙げる。ひとつめは、大型店舗が「焼畑農業」ならぬ「焼畑商業」だからだという。儲かっている間はいいが、ひとたび採算が合わなくなると大型店は急遽閉店したりするらしいのである。しかも閉店するのは窮乏に追いやられた商店街の店が営業停止をしはじめるころだというからたちが悪い。住民はどこで買い物をすればいいのか、ということになる。なお、自治体は「雇用の創出」や「固定資産税」の確保などという理由で、規制緩和よろしく大型店を誘致してしまうそうである。しかし大型店によって創出される雇用がたとえあったとしても多くはパートタイマーだろうから、商店街における自営業の喪失のほうがショックは大きいだろう。固定資産税についても同様で、大型店によって確保できた分、商店街から得られる固定資産税は喪失するだろう。したがって自治体はゼロサムゲームを招いているだけだ、と著者は論難する。悲劇的なゼロサムゲームであるな。
ふたつめは、愛着の問題である。大型店のほとんどはチェーン店だから、住民がいくらそこを活用していたとしても愛着は生まれてこないだろう。自営業がたくさん軒を連ねる商店街ならば、「この町にしかない店がたくさんある」「なつかしいなあ、あの店まだがんばってるんだね」などと、まあいってみればアイデンティティーにもなるわけである。大型店がひとつでーんとあるよりは、小さくても愛着のわく商店街がたとえ細々とではあっても街の支えになっているほうが人は「うれしい」と思うのである。
 
さて、みんな大好きな上野はマルイもあるしABABもあるし吉池(知らないかなあ)や上野駅のアトレなどの比較的大きな店舗もある一方、アメ横仲町通り(主に風俗店)や通称仏壇通り(浅草通り)や前出のかっぱ橋道具街まであるというハイパーコラボレーションシティである。なぜ上野がハイパーコラボレーションシティとなりえるかというと、自論だが、大型な店舗が昔ながらの商店街に干渉していないからだと思う。マルイやABABには仏壇や魚が売っていない。仏壇屋にもミニスカートやCDは売っていないのである。大型店も商店街も、お互いを尊重しつつ共存しているという感じがする。だから上野は最高なのである。