オールドファッション
ヨーグルト
 
8時半に起きてしまったため、本を読んで掃除して午前終わり。
 
ごはん
白身魚フライ
ひじきと油揚げの煮付け
 
今日はずっとおなかが痛いです。
上野を歩いていると、女性に声をかけられた。
 
「占いをさせてもらえませんか」
「何ですか?」
「趣味で占いをやっているんです。お金はいただきません。人相占いを・・・」
「えー」
 
占いというだけで断ってしまったが、人の趣味を否定するようでなんだか悪いことをした。無料ならやってみてもよかった。でも人相占いというと、顔の良し悪しを評価されるようでちょっと怖い。
 
その帰り道にこういうことを考えた。
占いの因果関係を逆にすることはできるだろうか。あくまでも例だが、目と眉の縦位置が離れているほど心の広い人だ、という占いがあったとする。そこで心の狭い人にはなりたくないな、とある人が思い、整形するなり眉毛を剃るなり描くなりして目と眉の縦位置を離したら、その人の心は広くなるだろうか。
多くの占いは、そんなに単純な因果関係で判断するわけではないだろうから、あまりそういうことはないのだろう。つまり、そもそも目と眉の位置だけでは占わない。たいていの占いはいわゆる一問一答形式ではなく誘導尋問形式の占いである。
でもきわめて感性の高い人なら、どこがどうだからとか尋問とかもせずに当てることができそうな気もする。人相占いなら特にそうじゃないだろうか。テレビニュースの血液型占いや星占いとは違って、話し方、姿勢、服装、目線なども併せて見られるから、当たる確率は高そうだ。
 
しかし、何をもって占いが「当たった」とするか。占いはすべてでたらめであてずっぽうなのかもしれないけれど、まともな占いがあるのだとしたら、それは純粋に事実を事細かに当てるのだろう。一方でたらめであてずっぽうな占いは、私に「当たった」と思わせることが目的だ。どうやったら私に「当たった」と思わせることができるかを主眼においている。過去の経歴をなぞることか、未来を予測することか、私の未来は幸せか不幸せか、不幸せであればどうすれば幸せになれるか、不幸はいつ訪れるか、何を不満に思っているか、恋愛がいつ破綻するか、成就するか、結婚はいつできるか、幸せな家庭を築けるか、仕事はうまくいくか、いつ死ぬか、健康でいられるか、何を患うか。いろいろあることを思えば、こういったことをベラベラベラベラと並べ立てる不遜さを身に付ければ、でたらめであてずっぽうでよければ誰でも占い師になれそうな気もする。だから、「当たった」からといってその占いが「信用できる」とは限らないとも思う。当たり方にもよるだろう、と。
たとえば星占いであれば、少なくとも私の経歴から星座を当ててもらわないと信用する気になれないのである。逆から占って当たればすごいなあと思う、ということだ。
 
しかしその場合でも、「すごいなあと思う」だけである。当たる当たらない、信用できる信用できない、ということがどれほどの意味を持っているか。
明日は一日中雨だ、と天気予報は言っているとする。そして明日の朝になってみると、晴れだったとする。私は傘を持つことが嫌いなので、天気予報がどういっていようと、その日の朝が晴れであれば傘を持たずに(折り畳み傘も持たずに)出かけるのである。私にとっては、要不要で言うなら天気予報はまったく不要である。「明日は雨です」と聞いて憂鬱になったり、「明日は晴れです」と聞いてうれしくなったり、明日の朝になってみて雨なら「雨だ」と思うだけだし、晴れなら「バカめ天気予報」と思うだけだ。でも、天気予報はおもしろいので、だいたい毎日欠かさずに見る。天気予報は娯楽なのだ。
占いは天気予報と似ていることを言いたい。占い師が私に対して30歳で結婚すると占ったとする。でも、それがわかったところでうれしいと思うか、やばいと思うかはわからないが、いずれにしても、ただ30歳で結婚すると予報されたという事実が残るだけであって、それ以上でもそれ以下でもない。そして、30歳になって結婚すれば「30歳で結婚した」と思うだけだし、30歳でも結婚しなければ「バカめ占い師」と思うだけだ。誰だってそうだろう。つまり、その「思うだけ」を楽しめるかどうかで、占いが好きな人とそうでない人に分けられることを言いたい。占いが好きな人は、私が天気予報を好きなように占いが好きなだけである。占いに意味があるとすれば、楽しめる人もいるという意味で意味がある。そういうことを考えた。
 
みどりのたぬき天そば
魚肉ソーセージ
 
飲んで歌って踊った。眠い。