地震が怖い。阪神大震災のときは奈良に住んでいたので、せいぜい震度5くらいですんだのだけど、あの地震が起きたころには陸上部の朝練に備えてちょうどレム睡眠に入っていたころであったため、その激しい揺れを夢と現実のどちらでも体感したわけで、もうわけがわからない状態のまま揺さぶられた恐怖を味わったのである。「あ、死ぬ」と思ったと同時に、どうせ死ぬなら痛みを感じることなく一瞬のうちに家具やら天井やらに潰されて、一切の苦しみを味わうことなく死にたいなどとレム睡眠と覚醒の狭間で観念したものだ。犬はガクガク震えていたがもちろん私も震えたさ。
あの恐怖は忘れられない。当然、震源地付近にあった人たちとは比べ物にならないくらいにやわい程度の恐怖だったのは確かだが、まあそんな恐怖自慢は無意味なのでやめにしようじゃないか。私もたいそう怖かったのであるよ。
 
さっきも揺れたよね、東京(0時25分ごろ?)。私の住まうマンションが揺れただけか。まあショボい建築なので、地震でなくてもトラックが通るだけでゴゴゴと揺れるから否応によらず敏感になる。
こないだ実家で母親と話をしたとき、地震の話題になった。最近東京で地震が多いよねーなど。うむ、確かに地震が多い。思うになんたらプレートが既に歪の極限に達しており、まさにプールの飛び込み板のごとくいつびよーんとなるかわからない状態にあるといっていいくらいではないか。先ごろの震度5くらいの力で3分割くらいに力を分散させつつその歪をできるだけ少しずつ解消していってほしいと切に願う。あの大嫌いな会社を退職した今となっては、つぶれてほしいものなんてなくなった。一気に震度15とか前代未聞の揺れが来たら、なんて考えると、なんかもうだめだ。それでも辛うじて生き延びたときのことを考えて、部屋にいるときもパンツマンでいる時間を極力少なくせねばなあなどとまじめに考える。
 
地震が怖いと思うあまり、揺れてもいないのに揺れたと錯覚することがある。何が揺れているかっつーとほかでもない自分が揺れているんである。なんで自分が揺れるのかわからないが、そういうことがままある。ある意味冗談ぽくその錯覚を母親に話して、まあ私としては「自分が揺れてるってそんなアホなことがあるかいな」というツッコミを期待していたのであるが、母親いわく
 
「あー、それあるある」
 
と同調していたところを見ると、母親も私と同様に自身の体がひとりでに揺れだして、なおかつそれを地震と錯覚することがあるらしいことがわかった。こんな天然親子はそれこそ天然記念物として堅牢な耐震構造の建物で保護すべきではないかと、長くなったがそれを言いたかっただけだ。
 
ごはん
春雨スープ
生卵
 
ラジオの聴取率はどのように把握されているのだろう。テレビだとビデオリサーチだかの機械がテレビの横に設置されて、それをもって視聴率を計算すると聞いたことがあるが、ラジオの場合はそんな機械の話を聞いたことが無い。
よしんば機械があったとしても、ラジオはテレビとは違って据え置き型からポータブルやカーラジオまでその形態はさまざまである。ビデオリサーチならぬラジオリサーチの機械があったとして、仮にそれをカーラジオにくっつけてくださいと依頼されても、限られた車内スペースにそんなものをつけるのは嫌だろう。据え置き型につけたとしても、チューナーとして独立したラジオ機を持っているマニアックな人なんてほとんどいないんであって、たいていの据え置き型家庭内ラジオはミニコンポやラジカセなどにくっついているだけである。したがって家庭内におけるミニコンポやラジカセの主目的はCDを聞くことであって、ラジオの機能はほとんど使われていないように思われる。するとラジオの聴取率はゴールデンタイム(いつ?)でも0.2%とか、いやもっと低いんではないか。それで広告料が設定されているとしたら、なかなかつらい商売だろうなあと思う。
一方ラジオリサーチ機がなかったとしたらどうだろうか。0.2%ならまだしも、ひょっとしたら聴取率が0%かもしれない可能性だってあるわけで、放送側はそのむごい現実を知らずに渋谷の道玄坂がどうのこうのと垂れ流しているかもしれんわけだ。まあ、インターネットで個人日記なんて、限りなく閲覧数が0に近い(少なくとも自分は見てる)ものを毎日書いている立場で言えることではないが。
 
シーフードヌードル
 
ドラえもんの道具に石ころぼうしというものがある。水泳キャップのような形をしていて、それをかぶると存在感がなくなるというもの。姿が消えたり存在自体がなくなってしまうのではなくて、あたかも路傍の石ころのように、それをかぶった人の存在感がなくなってしまうという。
記憶があいまいなのだけど、たしかそれをかぶっていると、何かをしゃべっても声は聞こえるのに意味が伝わらないんではなかったか。違ったかな。まあそういうやつだ。
私は人が多いところに行くと石ころぼうしを考える。群衆の中で、ひとりひとりの存在感が希薄である様子をみると、つい連想してしまう。石ころぼうしって、こういう、群衆の中で希薄になった個人の、なんだろう「影の薄さエキス」みたいなのを抽出して作るもんなのかなと思う。他人とは深く関係しないっていう21世紀の気分は、ドラえもんの世紀(22世紀?)にも継承されているのかしらん。未来的な道具だなと思う。
あとすごいのは、空を飛べたり野球がうまくなったりと、何かを実現するための道具でないところだ。事実は何も変えないかわりに、人の物の見方を変えるんである。こんなこと言いたかないが、哲学的な道具でもあるな。
ちなみに、ドラえもんは好きでも嫌いでもないです。
 
ごはん
納豆
あさりのみそ汁
 

At the Bohemia

At the Bohemia

会社の人から電話がかかってきた。私が所属していた部署の略称と正式名称を教えてほしいとのこと。なぜそんなことを知りたいのか、なんとなく聞かなかったが、たぶんあの社内推薦で必要な情報なんだろう。本気で推薦する気だなコノヤロー。おもしろそうだなあ。って、ちょっと他人事みたいな気持ち。
この電話をかけてきた人と銀座へ飲みに行ったときのこと。私は仕事で遅くなるので、先に店に入ってもらった。仕事半ばでもういいやと思って銀座に行ったのだけど、地図がなくて場所がわからなかったからその人に電話をかけた。
 
「すんません、いま銀座についたんですけど、店どこかわからないんですよ」
「えとなーあの出口から高架沿いに歩いてきたら青い看板があんねんそこで待ってるわ」
「高架沿いってことは、北ですか。南かな?」
「すまん俺、北とか南とか言われてもわかれへんねん」
 
これはまた、意外なところで、名言。北とか南とか言われても・・・ククク、北とか南とか・・・ぶばははははは!
電話口で笑いをこらえ切れなかった。道案内をしてくれているのに悪いことをした。でも、ははは。
文字にするとあの妙味が失われてしまって残念だ。