哲学が好きだ。
今はウィトゲンシュタインの「哲学的文法」を読んでいる。
5章の第6節、これが琴線に触れた!
 
「これは彼なのだ」(この画像は彼をあらわしている)。このことに描写のすべてがある。
この画像がこの対象の肖像であること、すなわちこの対象を描写しているのだということ、そのことの基準は何か。その検証はどうやってなされるのか。似ているということがその画像を肖像にするわけではない。(その画像がある人に見違えるほどにているが、実は、それほど似ていると見えない他の人の肖像だということもありえよう。)
彼がその画像はNの肖像だと思っていることを、どうやって私は知りうるか。--それは、彼がそう言うとか、その下にそう書き付けるとかすることによってである。
Nの肖像画はNとどんな連関をもっているか。それは、たとえば、彼が呼びかけられるときの名前がその下についている、という連関である。
 
私が友人のことを思い出し、彼を「心の中に見ている」とき、記憶像とその対象との連関は何か。似ていることか。
像としての表象は、彼に対し、ただ似ているということがありうるだけである。
 
彼についての表象は、描かれていない肖像画である。
表象においても像の下に彼の名前を書かなければ、その像が彼についての表象になるまい。
 
私はある特定の行動をやり遂げる企てを持っている。ある計画をその最後のところまで考える。その計画を心に抱くからには、私は自分がかくかくのことをするのを見ているはずである。しかし、私が私の見ているものであるということを、私はどうやって知るのか。ところで、私が当のそのものであるのでは、もちろん、ない。そのものは、いわばひとつの像である。しかしどうして私はそれを私の像とよぶのか。
「私がそれであることを私はどうやって知るのか」という問いが、たとえば、「私がそこに見ているものが私であることを、私はどうやって知るのか」ということであるのなら、その問いは意味を持つ。そしてこの場合、答えは、私が認知されうるための諸特徴を挙げることになる。
しかし、私の表象像が私の代理をしているということは、私が自分で決めることである。だから右の問いと同じ条件で、「『私』という語が私のだいりをするということを、私はどうして知るのか」ということもできることになろう。それというのも、像のなかの私の形姿は、もうひとつの「私」という語にほかならないからである。
 
「君が戸口から外へでてゆくのを、私は想像してみることができる。」文の、ないし思考の中で、対象が、それについて文が言表することがらをおこなう、という奇妙な錯覚にわれわれはとらわれる。あたかも、命令の中にはその実行の影がやどっているかのように、である。しかもそれは、まさにこの実行の影でなければなるまい。命令のなかで君がどこそこへ行くのである。--そうでなければ、それはまた別の命令であることになろう。
たしかにこの同一性は、二つのちがった命令が相違することに対する意味で同一性である。
 
「ナポレオンは一八〇五年に帝位についたと私は考えていた。」--君の思考はナポレオンと何のかかわりがあるのか。君の思考とナポレオンとのあいだにどんな結び付きが存するのか。--それは例えば次のような結び付きだ。私の思考の表現のなかに「ナポレオン」という語が出てきたこと、プラス、この語がその担い手に対して持っていた連関、つまり彼がそう署名したとか、そう呼びかけられたとかいったこと。
「しかし『ナポレオン』という語を君が口にするとき、君がその語でさしているのは、まさにこのじんぶつではないか。」--「君の意見では、この指示するというはたらきは、いったいどのように行われるのか。一瞬のことか。それとも時間がかかるのか。」--「とにかく『君がいま考えていた男は、アウステルリッツの戦いで勝った男のことか』とたずねられれば、君はきっと『そうだ』と言うだろう。だから、君があの文を口にしていたとき君はこの男のことを考えていたのだ。」--なるほど。しかしそれはただ、私はその際に、6掛ける6は36ということも知っていた、というのと同じ意味においてだ。
「私はアウステルリッツの勝者を考えていた」という答えは、われわれの記号操作において新しく一歩すすめることなのである。その場合に過去形が錯覚のもとになる。というのは、その文は、私が前に話していたときに「私の内部」で起こっていたことを記述するかのようにみえるからである。
 
(「しかし私は彼を考えていたのだ。」この考えるというのは、まったく風変わりなことがらである。人はヨーロッパでアメリカにいる人を考えうるか。それなら当人がもはや実在しなくても、その人を考えうるのか。)

        「ウィトゲンシュタイン全集3 哲学的文法」(山本信 訳)