手ぶらで出かけることってどれくらいあるだろう。手ぶらというのは本当に手ぶらのことで、財布も携帯電話も携帯音楽プレーヤーも持たないことである。ほとんどないんじゃないだろうか。
私もほとんどない。公園や家の前で自転車の練習をしているときは手ぶらだけど、自転車がある。私たちは常に何かをしていないと不安なのかもしれない。
そう考えたとき、「何もしていない時間がもたらしてくれるものもあるのだ。だから何もしない時間をたまには作ろう」と言いたくなってしまうが、それすら不安の裏返しである。極端に言うと何もしていないことは不可能ではあるんだけど、少なくとも、無駄な時間をすごすことに対していわれのない不安に駆られる必要はない、と言いたい。
 
生きていることに意味はないし、この世のどんなことにも価値はない。哲学者のニーチェはそう考えて、このニヒリズムを超克する思想を打ち立てた。
だけれど、同じ動機でもってまったく反対の思想を語ることも可能である。もはや無価値を超克する意味もなく、ありのままであり続ければいい。これがタオイズムである。ニーチェとタオイズムは正反対ともいえる思想だけど、立脚点はまったく同じだと私は考えている。単に解決策が違うだけだ。