解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯

解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯

伝記を読むなんて、小学生のころに野口英世のを読んで以来かもしれない。ジョン・ハンターという人は18世紀のスコットランド人で、「外科を科学にした男」。当時の外科というのはヒポクラテスの時代からまったくといっていいほど進歩していなくて、「病気は体内の体液のバランスの狂いから生じる」と信じられていた。その根拠レスな学説を誰も疑うことがなかったため、瀉血(しゃけつ:血を抜くこと)や嘔吐やら浣腸やらが、外科のまっとうな治療法としてまかり通っていた。
子供の頃から勉強と名のつくものは一切拒否していたジョン・ハンターが、兄の手伝いで解剖の助手を経験してからその才能を開花させる。解剖はもちろん医療目的でやっていたことだが、かれは解剖で取り出した臓物やらあれやこれやをアルコールにつけて(当時はホルマリンがなかったらしい)自宅のコレクションにするなど、奇人ぶりを発揮。でもそうした志向が人体の、ひいてはありとあらゆる生物についての正しい理解へと導いてゆき、やがてかれは当時の外科を支配していた根拠レスな治療法を凌駕する「科学的」な治療を実践しはじめる。これがいかにすさまじい進歩なのかは・・・読めばわかる。あまりにも進歩しすぎなことにつき物ではあるけど、当然かれのやりかたは多くの人(そのほとんどはハンターの業績に嫉妬する医者たち)に受け入れられなかった。ともあれ彼がいなかったら、人体の理解や外科の進歩は100年くらい遅れていたんじゃないかと思う。むしろ私はジョン・ハンターの出現前の医療がこんなに原始的だったのかと驚かされたくらい。
かれのすごさはそれだけじゃない。かれはあらゆる生物を解剖しまくり、その仕組みを観察することによって、ダーウィンよりも70年も前に「すべての生物は共通の祖先に由来するやも」という考察を、あてずっぽうでもなんでもなく、やってのけていた。私がこの本でもっとも読ませられたのはそこだった。ヒトとサルの頭蓋骨を並べて博物館に展示して、じわりと示唆するところとか、たまんねえなあ。新しく正しい世界観を語り始めるのは、なんとすばらしいことであるかな。
さてこういう偉人伝だけなら、野口英世の伝記とあんまり違わないかもしれない。でもこの本を決定的におもしろくしているのは、ジョン・ハンターの奇人ぶりなのだ。自宅で解剖していたので、家中に死臭が漂い、数万点もの臓物や骨格の標本がところ狭しと並んだ。そして解剖の材料を調達するために墓泥棒を雇い、そのビジネスを当時のイギリスの一大産業に発展させてしまったりとグロいエピソードが笑える。
いやあおもしろかった。翻訳もすぐれているから350ページも一気に読めるでよ。山形浩生の解説つきで2,200円也。