職場では私は「自転車の人」ということになってしまっている。それは別に否定しないけれど、自転車はただの道具である。私は何をするにしても道具にはこだわらず、ソフト面を追求するタイプなのだ。要するにマニアではないと言いたい。
自転車は人類が生み出したものの中でもっとも優れた発明品のひとつだと思ってはいるけど、自転車そのものよりも、自転車に乗っているときの気分とか、景色とかの方が大事だ。でなきゃツーリングなんて行きますかいな。
自転車だけじゃない。ピアノが好きといってもどんな曲でも好んでひくわけじゃなく、いろいろ試した結果ジャンルはかなり偏っている。絵を描くのだって筆や絵の具や紙は、小学生が持っているものの方が高級かもしれないくらいだ。ジャズもまあ数はよく聴くけれど、極端に好きなミュージシャンが他の音楽ジャンルよりもちょっと多いだけで、実は嫌いなミュージシャンの方がたくさんいたりする。
何々が好きだといっても、何々に関することがすべて好きというわけじゃないのだ。
誰だってそうじゃないか。本を読むのが好きな人は、どんな本でも読むかというと、たぶんそんなことはないだろう。きっと読みたくない本はたくさんあると思う。もっとも、本という物自体が好きという倒錯的な人もいるが。
 
話は違うけど、私は何かひとつのことに徹底的に凝るとか極めたいとか思った経験がない。たぶんこれからもそうだと思う。女の人を好きになっても「この人しかだめなんだー」みたいな気持ちになったことがなくて、いつも「この気持ちも一時的なものだろう」という自覚をもってしまっている(だからいつもダメなのかも)。
惚れやすく、飽き性なくせに、変に冷静なのだ。でもきっと飽き性の方が、世界の理解が広がって、生きていて楽しい。盲目的に凝っている人はなんだかかわいそうだと思うし、見ていてつまんない。自分はぜったいあんなふうにはなりたくないと思う。
なぜかと理由を聞かれても答えられないが、人はとにかく何でも見聞きし、やってみて吸収していくべきなのだ。人は自分ができないことをやりたがらないけど、できないことってけっこう気持ちいいことである。意外とみんな気づいていないことだ。できないからといって笑う人がいたら、ぶん殴っても罪にはならない(なります)。できる人との圧倒的な差を見せ付けられて、自分に勝ち目はないと思い知らされたとき、おもいきり笑えるぞ。