知識はほとんど伝聞に頼っている。去年の日本シリーズでは中日ドラゴンズが勝ったことは、たぶん日本国民の3割くらいの人が知っている。でも勝ったところをテレビでも新聞でもインターネットでもなく、実際に見たり、実際に中日ドラゴンズに所属していて勝利を体験した人は国民の何%かわからないくらいに少ない。有田焼という陶器は、佐賀県の有田で作られた焼き物であることを私は知っている。けれどもそれは、そうと聞いたことがあるだけで、現地に行って生産現場を目撃したわけではない。富士山が日本一高い山であることを計測して確認したことはない。
伝聞に頼っているのは、感情についてもそうだと思う。私が落語を聞いて笑う回数は、これまでにどれくらいあっただろう。映画を見て過去に何回泣いただろう。チャールズミンガスの音楽を聴いて何度興奮したか。笑ったり泣いたり、興奮したりしたことは、これまで生きてきて何度あったかわからない。でもその中で、自分が直接かかわっていたことは何割くらいあるのか。たとえば私やあなたが、落語やテレビに頼らずに「人と話して」笑うことは、1日あたり何割くらいあるのか・・・というふうに考えてみると、実はかなり少ないのではないか。と思う。
ひと括りにしていいかどうかは、わからないけれど、やっぱり本当の感動というものは、自分が直接かかわってこそ実現するものだと思う。野口みずきが去年のマラソンで勝ったのを見たときは感動した。でもそれは自分がマラソンを走りきったときの感動とは、まったく別の種類のものである。より価値が大きいのは、野口みずきの勝利よりも、自分がマラソンを完走したことの方だと思う。
うまく表現できない。でもとにかく、私はできるだけ多くのことを自分でやらねばいかんと思っている。その考えが正しいかどうかはわからない。単にそういう信念を持っているというだけの事。伝聞や鑑賞がすべて悪いと言うつもりはないが、できることならいろんなことに自分が主体的に関わるようにすべきだと思う。
いや薀蓄を語ることだけが達者で、自分では何もやらない(できない)人を見て悲しくなったもので。