heppoco2006-08-07

人の体臭というのは誰の臭いであれ、嗅ぎたくはないものだ。それなのに、自分の体臭を嗅いだときのあのかぐわしさはなんだろう。
夏も本番を迎えて、自転車ツーキニストの私は汗をたくさんかいたままオフィスに入る。デオドラントとかそんな気の利いたものは使わないので、必然的に私は汗臭い人になる。今まではそんな気になるほどではなかったが、最近めっきり湿度も気温も高くなったせいで、汗の量も増えて臭いのきつさも倍増した。
 
太っている人の汗臭さというと、ああ、あのにおいのことか、と誰でも想像が付くと思う。あのにおいは太っている人に独特の何かが作用した結果だろうと私は思っていた。単に汗をかいただけではあの臭いにはならないだろう、と。事実、これまでの私の汗臭さはああいうにおいではなかったのである。
ところが今日の私はあのにおいになっていた。個人的な感覚だが「お寺」みたいなにおい、「お寺」みたいな太っている人のにおいが、私の体から。
あのにおいは、太っている人オンリーじゃなかったのである。どうやらある一定以上の汗をかくと、あのにおいになってしまうらしい。まあ大した発見でもないが。
いざ自分があの臭いの発生源になってみると、今まで嫌だったあのにおいが意外とかぐわしいもののように思えてくるから不思議だ。そう思っているのは自分だけなのだが。デオドラントを買えよと。
 
そうして今日はひとつ悟ったのである。およそこの世には臭いものなどないのではないか、と。「お寺」みたいなにおいを今までは臭いと思っていたのに、それが自分のにおいになったとたんに、かぐわしくなる。
昨日書いた納豆のにおいについてもそうだ。もし納豆のにおいが自分のにおいだったら、「におわなっとう」なんていう商品などありえなかっただろう。「納豆は臭い」という一般的な理解があるからこそ、ああいう商品ができる。実際、長時間靴を履いたあとの私の足のにおいは納豆のにおいに酷似している(からこそ、私は納豆のにおいが好きなのかもしれない)が、もしそうでなかったとしたら、納豆のにおいをわざわざなくすことの理由を理解できなかったはずである。